爆笑問題のニッポンの教養

爆問の再放送で再び出会った、ヴィクトール・フランクルの公式

絶望 = 苦悩 - 意味

ぱっとこの式をみたとき、どう解釈するかでなんとなくその人がわかるのかも。

自分が最初知ったときは、意味=0のとき、苦悩は絶望になる、
と思ったけど、再放送で福島教授が

「絶望しなければ苦悩には意味がある」

てなことを言っており、自分ってネガティブだな、と再認識しましたョ(∋_∈)

確かに、自分にとって今悩ましいことを考えたとき、
なぜこんな状況なのか、なんで解決しないのか、と絶望してみるよりも、
きっとこれが解決したら新しい状況になっている、とか意味を見出してみると希望がもてるかも。

こういう式はあまり移項とかしないほうがいいんだろうけど、(-絶望)=希望 で変換すると

   希望 = 意味 - 苦悩

苦悩よりも意味が大きければ、希望が持てる。
そうして人は新興宗教にはまっていく、みたいな。
そう思うと、「意義」とか大それたものでなく、小市民的な(?)「意味」をあてたのがいいかんじかも。

そう言えば絶望先生(漫画です)は、
絶望した!と言ってはナンセンスに苦悩するあたり、この公式どおり、なんかな。
そいじゃまたー

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努力信仰

http://diamond.jp/series/izumiya/10022/ より備忘録

努力でなく熱中できること。

「努力」・・・「つらいことを我慢して」
「熱中」・・・「好きなことに自発的にのめり込んで」

「熱中」したがゆえに成功した人間を見て、周囲の人間がそれを「努力」と誤解
したところに、今日の「努力」信仰が作り出されてきた原因があるようにも思わ
れます。

子供が砂場で日が暮れるまで砂の城を作ったり、ゲームを徹夜でクリアしたり、
エレキギターの練習に夢中になることは、周りからは滅多に「努力」と呼ばれる
ことはありません。しかし、ことこれが勉強やスポーツのトレーニング、ピアノ
やヴァイオリンの練習などの場合には、たとえ本人にとっては「熱中」と呼ぶべ
き内実だったとしても、周囲からは一律に「努力」として捉えられがちな傾向が
あって、周囲の見方とはこのように当てにならない偏りを持っているものなのです。